バザールでござーる: 世の中には色んな消費者がいるものだ

以下、個人的なメモ。

うちでとっている地方紙に、某大学の某教授の連載がある。
今日(正確には昨日)、それをたまたま読んで、彼の「消費者」観にただただ唖然としてしまった。

〈知事逮捕に見る「なし崩し」風儀 「無関心」「訳知り顔」浸潤〉

という記事。

彼は、最近逮捕された知事たちの〈「とりあえず関与を全面的に否認する」〉態度や、非行生徒たちの〈「非行事実それ自体をまず否認する」というやり方〉を、ある本の著者の推察を借りて〈消費社会の消費者に固有のふるまい〉だと主張している。

彼に言わせれば、〈消費者マインド〉とは、〈目の前に示されるすべてを商品として捉え、それをできるだけ安い対価と交換しようとするという傾向のこと〉だとか。
したがって消費者は、提示されたものに、〈「そんなものには私は興味がない」という「無関心」の態度を示〉すか、〈その商品がどのように低品質のものであるか私は熟知している」という「事情通」のふりをする〉ことで、〈「できるだけ低い評価額」をつける〉のだそうだ。

世界に一つだけの花

は・・・?


まず、〈目の前に示されるすべてを商品として捉え〉るという点がよく分からない。
「すべて」って・・・。
「すべて」ということは、恋人が作ってくれたカレーライスも商品なのだろうか?
(恋人がじゃがいもやにんじんなどの具材を買うとき、それらはれっきとした商品だ。だが、恋人が作ってくれたカレーライス自体を、消費者(つまり、みんな)は「商品」として捉えるのだろうか?)

また、「無関心」の態度を示すとか、「事情通」のふりをするというが、たとえば「SMAP」のファンは、「SMAP」のCDを買うとき、「無関心」を装ったり、「SMAP」のCDが〈「どのように低品質のものであるか私は熟知している」という「事情通」のふりをする〉のだろうか?
ありえない(断言!)。

むろん彼が言うように、消費者には、自分が欲しい商品(=商品として提示されたもの)を〈できるだけ安い対価と交換しようとするという傾向〉はある。
ただこれは、単に使えるお金が限られているからだ。
多くの消費者は、そんなに楽な暮らしをしているわけではない。
(大学教授の給料は、よほど高いのだろうか。新聞社や通信社の記者の給料は確かに高いが)。

彼は次のようにまとめている。

〈ものの価値を否定してみせることによって、より安く手に入れようとするこの「バザールの風儀」は、今や年齢、性別、職業を問わず日本人のあらゆる社会活動に浸潤している。
しかし、知事たちの醜態が示すように「無関心」と「訳知り顔」だけで生き延びてゆけるのは「バザール」というコップの中だけである。〉

「バザール」なんていう言葉を久しぶりに聞いた。
「バザール」で思い出すのは、NECの昔のCMコピー「バザールでござーる」だ。
(秀逸。個人的に好きだった)。
それから、デパートなどが「バーゲン」のおしゃれな言い方としてポスターで使ったりしていた。
新明解国語辞典には、「〔西アジアなどの〕露天市場」と説明してある。

で、その「バザール」なのだが、まず、消費者に関するものは、実は今の日本にはほとんど存在しない。
地域社会で行われている朝市やフリーマーケットがいいところだ。

日本では、商品は基本的に決められた販売価格で売られていて、〈価値を否定してみせることによって、より安く手に入れ〉ることは、事実上できない。
消費者にできるのは、より安く売っている店を探すことだけだ。
(とりわけ新聞のように価格が決められている「商品」は、いくら〈価値を否定してみせ〉ても、安く手に入れることはできない。取るのをやめるか、別の新聞に替えるか。つまり、〈価値を否定〉する=買うのをやめる、だ)。

それから、朝市やフリーマーケットで、商品の〈価値を否定してみせることによって、より安く手に入れようとする〉お客が、はたしてどのくらいいるのだろう?
値切ろうとする人はいるだろうが、それはコミュニケーションを楽しむためでもあるだろう。

一歩百歩譲って、彼の言うような「消費者」がいるとしよう。
だがそれは、「世の中には色んな人(=消費者)がいる」というレベルの話だ。
「色んな消費者がいる」という意味では、「自分が欲しい商品をできるだけ安く買って、浮いたお金を世界のめぐまれない子供たちのために寄付している消費者」も、当然いるだろう。

彼の文章の最後の〈「バザール」というコップの中〉という表現は、正直、何のことだか分からない。
「バザール」=「資本主義社会」ということなのだろうか?

追記:
最近大学などでは、「学生」と「授業」の関係が、「消費者」と「商品」の関係になりつつあるようだ。
たとえば、学生が授業を点数化して評価することが、当たり前になってきている。
(これは、塾や予備校では、大昔から行われていたことだが)。
上記のずいぶんと被害者意識的な消費者観を読んで、大学におけるそういった〈かなり近年〉の流れをふと思い出したしだい。

それから。
このブログでは「消費者」という言葉を多用している。
しかしそれは、上記の記事にあるように、〈現代人はおのれをまず消費者として規定する〉からではない。
実際のところ、現代人が自らを自ら〈消費者として規定する〉のは、主として意識的に社会システムを考察しようとする場合に限られるだろう。
個人的には、人は「消費者」である前に「人間」だと考えている。
(何しろ文学部出身なので)。
せいいっぱい意識して「消費者」を前面に出しているのは、資本主義社会を、「資本家」(「金持ち階層」)と「労働者」(非金持ち階層)の固定化した対立構造として捉えるのではなく、「消費者」を主人公とした本来は平等であるべき社会システムとして捉え直すことで、どういうわけか毎日の生活がよりハッピーになるからだ。
深い意味はない。

以上、個人的なメモ。

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