「幸福」のイメージの貧困

秋葉原の事件からちょうど1年になるということで、昨日はニュースがこぞってその話題を取り上げていた。

で、あらためて思った。
メディアによって日々垂れ流される幸福のイメージがあまりに貧困であることが、あの事件の背景にあるのではないか、と。

人間には、性格や体質の違いなどの個体差がある。
しかし、なぜかメディアが垂れ流す「幸福」のイメージはいつも同じだ。

一人ひとりが違うのに「幸福」の種類が一つしかなければ、そこからはみ出す人が大量に出てくるは当然だ。

秋葉原事件の犯人は自分のことを「幸福」ではないと信じていたようだ。

確かに、彼は派遣社員だった。
今の日本では、派遣社員であれば、「幸福」ではない。

しかし、本当のところは、そうであるはずがない。
雇用が安定していない、ということと、「幸福」ではない、ということは、無関係だ。
幸福はもっと(というか、本来は100%)パーソナルなものだ。
少なくとも、ショップでナイフを買い、店員さんと言葉をかわしていた時の彼は、幸福そうに見えた。

犯人はメディアが垂れ流す「幸福」のイメージをいちいち真に受けていたのだろう。
「テレビで大々的に取り上げられるような大きな事件を引き起こす人間」=「悪のヒーロー」=「幸福」(少なくとも「派遣社員」より)と思っていたようなふしもある。

ところで、メディアが垂れ流す「幸福」のイメージは、なぜ画一的なのか?
それには、それなりの社会的な理由があるようだ。

かつて、皆が同じ「幸福」を目指すことで、経済が急激に成長していた時代があった。
一種類の「幸福」を目指して多くの人が同じもの(車や家など)を欲しがり買うことで、今でも経済は回っている。
だから、「幸福」は画一的であるほうが、経済効率がいい
なるほど。

そうであるとは言え。
秋葉原事件を思い出すと、いまだに、正社員=「幸福」、派遣社員=「不幸」、というような画一的なイメージを大量に、しかも一生懸命垂れ流しているメディアの罪は、深い、というしかない。

「幸福」のイメージが貧困な人々(と言えば、不正確だが、レトリック的につい書いてしまった)によって、日々、貧困な「幸福」のイメージが再生産されているのだ。

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